こんにちは、淡です。私の読書スタイルといったちょっと気取ったタイトルになっていますが、ライフスタイルの中に読書があるという位置づけです。私にとって思索にふける時間は、過去に読んできた本のなかからお気に入りの本だけを残してある小さな4段の本棚とのささやかな会合なのです。
学生時代、それも大学時代には、足繁く古本屋に足を運んだものでした。歴史小説、推理小説、ドキュメンタリー、翻訳本、古典、エッセイ集、数学書、哲学書、漫画など、どちらかと言えば古い本を読んだ割合が多く、読書友達に恵まれずじまいではありました。
最近でこそ、読書に充てられる時間というものはとても少なくなったものの、幾度となく繰り返し読んできたお気に入りの本が置いてある狭い自室にいると、これ、古典に面白さを感じる人にしかわからない感覚なのですが、不思議な安心感があるのです。
私が書いている文章の中でもし読めない漢字が出てきたとしても、大丈夫です。ただ、私よりも漢字を知らないだけです。私が書く文章の中に出てくる漢字は、私が手書きで書ける文字の範囲内です。私の文章を読めるかた、難読漢字をたやすく読めるのは、読書の賜物です。ちなみに、学習機能と予測変換を使わないで書いていることを明らかにしておきます。
なお、読書に慣れている方ならこの程度の分量でも余裕で読めると思いますが、慣れていない方にとっては、そろそろ眠気を感じてきているかと思われます。もし、眠くなってきた方がいらっしゃいましたら、ここで読むのを中断し、おやすみになってください。
このブログにおいて、分かりにくい表現が多々あると思われます。多くの場合は筆者の誤用ですが、なんにせよ、出典が、毎回、淡@管理人による書き下ろしなため、もし出版されることになれば、きちんと校正されると思います。
ここで、はてなブログのエディタのスクロールバーが登場したあたりです。はてなブログは、文章を書く私にとっては、数々の未読の書籍を読むための時間を執筆に充てているのではないかと、思うのですが…。
古典をあたっていると、編集者が勝手に表現を変えてしまったことに対することに対して文句を言う話が出てきたりするのですが、これは現代の人にとっては「なんのこっちゃ?」という話題だと思います。どういった文脈で、どういった時代背景で書かれた文章なのかという想像をはせたことも、若年であった私にとって心理的につらいものでした。
つまり、活字を楽しむということは高尚な遊びだと思うのです。私が書いている文章は、確かに、私が考えたことですが、何を書こうか考えながら書いているのではなく、手が勝手に接ぎ穂をしていっているという感じのほうがより正確です。
本当に不思議です。なぜ書いているのか。飽きないのです。私の趣味の中で、文章を書くことだけは、なぜか飽きないのです。
締めくくりに、こういったある種のカタルシスのような文章が発表の場を得られるということは、表現の自由が担保されていることの証明である、と、ちょっとだけ格好つけさせていただきます。もし戦時下であれば、まず公表することのできない類の文章です。これで、この記事を締めくくりたいと思います。読了ありがとうございます。
机下