或る日、僕は

「ほぅ…お客さんか、珍しいな。ここはダンジョンだ。わたしはここでコーヒー飲んでるから、ゆっくり見て行ってくれ。幸運を祈る。」Since 2014.

書斎兼寝室にて

 書斎にこもって書きものをしているところだ。まあ、好き好きではあるが、わたしもそれなりに色恋沙汰のしがらみに巻き込まれてきたこともあってか、異性というものがどういうものなのかということをまず警戒心から見る癖がついている。

 ところが、だ。

 いくつか多段防御を用意してあるが、今回は少し搦手からのアプローチということもあり、若干分が悪い。うまくしのぎ切れれば良いが、このまま進めてゆくと防御策が途切れる。

 なぜこういう事態になっているのだろうか。

 この問いに対しての答えは、多分に、用意できていない。

 先に、男が考える恋愛について書きたい、と書いた。

 例えば、オトナの男の場合では、こう、全力で寄りかかってくる感覚でオンナが迫ってくると、初めのうちはまあ良いとしても、ずっと寄りかかられっぱなしでは男のほうが持たない。逃げ出したくなる。

 というわけで、だな。

 逃げ場を作っておくのも一計だろうと念じてみる。

 わたしの場合では、とかくしがらみの多い大人の男にとっての気分転換の場が、「ブログを書く」ということだった。

 ふだんのくらしの中で人付き合いに疲れ果てているわたしの逃げ場でもあり、気分転換の場でもある場所。

 それは、書斎で書きものをしているときの気持ちの持ちようとでも言おうか。

 大人の男の付き合いは、ある種の実力の世界でもあるのだけれども、発言量に対しての対価というものをあまりにも軽く見られていることに関して、若干くたびれる話を聞く機会の多いわたしの場合での逃げ場が、書きものであった。

 そして、その逃げ場さえもまた、くたびれる話であふれ始めてきている。

 わたしの試みを開放すること。

 自慢話や苦労話に対しては、日頃接点のある職場において、ネガティブな態度で聞くよりも、ポジティブな態度で聞く方が相手の聞いてもらえた感を満足させ易いということを既に体感しているが、正直なところ、もう十年来の付き合いになる同僚の苦労話や思い出話を延々と聞き続ける役回りというのは、これは、もはや、カウンセリング料を受け取りたいほどに身の上相談話を聞いている役回りに近いのではないのだろうかと、憤りを感じ始めているところであった。

 だからこそ「親しき仲にも礼儀あり」というあたり、さじ加減が要るのである。

 つきあいが長くなると、つい馴れてしまうこともある。この塩梅は、書斎という場所で、少しでよいから、誰に評価されるでもなくとも、好きなように精神の自由を充足する時間を持つことで、保たれるものである。だから、わたしが書いた文章というものに対して、どんなに良いことが書いてあろうが、どんなひどいことが書いてあろうが、また、あまりにも平凡なことが書いてあろうが、これは、書いているプロセスそのものを楽しみながら書いたものであるから、結果的に書くことそのものが塩梅を保つために必要なものとなっていることを、理解に届くかはわからないが、試みとして防御策の一つとしてここに書いておく。

 精神の自由と書いた。

 わたしが考えている恋愛というイメージが、少し、揺らいでいる。

 カラダの関係を伴わない恋愛。プラトニックな恋愛観というものもあり得るのではあろうが、少なくとも、精神の自由を求めて恋愛をするというのもそんなにわるいものでもなさそうな気がしてきた。

 答えという答えらしきものはいまのところ見当たらない。

 ひとを好きになることって、そんなにわるい気持ちでもないが、正直言って、苦しみを伴うことも多々ある。恋愛というものは、とても苦しい時もある。だから、わたしは、恋をすることを避けてきたんだった。

 言葉を選び間違えたかもしれないが、わたしの書斎兼寝室で、就寝する前に今夜の思索を整理するプロセスを、わたしなりに試みたつもりだ。

 ささらない言葉を使えば、もっと気分はラクだろうが、何分内面をずいぶんと踏みにじられた感覚をふだん感じていたため、上記のような文章となってしまった。

 虚空に向けて発信するわけでもない。もし、この記事を読まれた方がいらっしゃったら、たぶん様々な感情が浮かび上がってくるかもしれない。それは、わたしの、心の叫びであり、また、安心して一日の苦労を自分自身でねぎらうためにどれほどの心の動きがあったか、という、そういうものを吐き出していることと読んでいただけると、幸いである。


 書斎兼寝室にて

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