或る日、僕は

「ほぅ…お客さんか、珍しいな。ここはダンジョンだ。わたしはここでコーヒー飲んでるから、ゆっくり見て行ってくれ。幸運を祈る。」Since 2014.

癒やし系男子「王道とはマンネリである」

今週のお題「私の癒やし」

 こんにちは、淡です。自分で言うのもなんですが、私を直に知るかたにとっては、私そのものが癒やし系男子として和やかな雰囲気を作るうえで欠かせない材料になっていることはよくご存じかと思います。結論から言うと「私が癒やし」なのですが、今回は「私の癒やし」なのです。このお題は実にベタな話題ではあるものの、たいへん結構な話題です。今週のお題「私の癒やし」。

癒やしは必要なのか?

 まずこれです。「癒やしは必要なのか?」。あえてお題を疑ってみるという、ちょっとした技を使ってみます。癒やしを積極的に求めるのは、おそらく、「現状に満足できていない」から、もしくは、「もう疲れ果ててしまったよ…orz」など、考えてみたところ、案外暮らしに近いところにありそうなのですが、あまり実感ないなぁ。

江戸時代の銭湯は混浴だった

 と、突然ですが! タイムマシンで江戸時代から現れた語り部が教えてくれたことを赤裸々に語ろうかと思います。江戸時代の銭湯は混浴だったとのこと。マジすか! 現代ではありえない話ですな…(公衆浴場はありますが…)。そりゃ銭湯が流行るはずですたい。若干補足すると、江戸時代の長屋や町家にはデフォルトで風呂は装備されておらず、銭湯に通って日々の暮らしを送っていたそうです。私自身、京都の町家に住んだことがあるのですが、確かに風呂はなかった。銭湯に通ってました。混浴ではなかったです(どっちかってーと、番頭のおばあちゃんの視線がものすごく気になっていましたが…)。混浴だったら、う~ん、確かに癒やされるかもしれないなぁ~。これがほんとの裸の付き合いってやつですな。癒やし。いやらしではありません。まあ、風呂にでも入ってさっぱりしたくなるとき、やっぱ私も日本人だなぁと思います。

「私とは、遊びだったのね!」

 あの、このセリフを言われた経験は私にはありません念のため。

エッチなことを考えるのは、わりと普通なことである

 想像力豊かである証拠です。

癒やし系男子とは草食系男子である

 実際のところ、私は癒やし系男子です。異性と話すときには、けっこう気を遣います(私はあまり猥談を得意ではないからなのですが…)。陰の努力はあります。面白い話題を聞いた日には面白かったことについてきちんと日記帳やノートに書きますし、気持ちの晴れない日があっても、「ライジング・サン!」の訳でして、すやすやと眠った翌日には気分も変わっていることが多いです。

王道とはマンネリである

 私の特技と呼んでもいい技がもう一つあります。それは、「聞いた話をほとんど聞き流す」という技です。会話の中では、実にさまざまな感情、身振り手振りなどのジェスチャー、その場の雰囲気、相手の服装や表情、声の調子など、文章で書き表すことの難しいほどの大量の情報量を得られますので、言葉面だけを追わないように工夫しています。「聞く気のない話題を聞くんだったら、なんか別のことしたほうが良いのではないか?」と思われるかもしれません。そこで、少しご想像いただきたい。「自分に話しかけてくれる人は、いったいどれくらい居るのか?」

モテているイメージを持つ

 どうも、このように書いてくると、「癒やし=エッチ」という風にとらえられるかもしれません。それはそのはずです。そのように書いています。彼氏彼女ができないと嘆かれる方もいらっしゃるとは思います。でも、恋人同士だからって、毎日イチャイチャして過ごしているわけではないんです。「ケンカするほど仲が良い」とことわざにある通り、恋愛には互いのパーソナリティのぶつかり合いが必ずあります。全然平坦な道のりではありません。むしろ、個性のぶつかり合いがあるほうが現実に近いです。ふだん赤の他人とケンカすることって、めったにないと思います。恋愛はほんとに裸の付き合いなのですが、どちらかといえば、「相手を立てる」「譲り合う」「ちょっとは辛抱する」など、けっこう礼節も大事だったりするという私なりの見解を示しておきます。

「癒やしは必要なのかもしれない」

 ただでさえひどい応対を受け続けてきているかたの多い現代です。癒やしを求めることになるのかもしれません。少なくとも、癒やされたいという願望があることは、わかりました。

私の癒やし

「私の癒やし」は、たぶん、そんなこと考えなくても暮らせていること。だから、「私が癒やし」になっているのかもしれないと、なんとなく思いました。

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